



本日は初代会長のインタビューです。よろしくお願いします。新潟県社会福祉士会は日本社会福祉士会ができるよりも前に発足していますが、そのエネルギーはすごいと思います。どういった経緯で新潟県社会福祉士会が誕生したのかを教えてください。
1987年5月に社会福祉士及び介護福祉士法が成立しました。その後、第1回目の社会福祉士国家試験があったんですけども、東北福祉大学から「新潟県の魚沼地区出身の4年生で、社会福祉実習を受ければ、国家試験を受験することができる人がいるので、お願いできないか?」と文書が来ました。当時、私は魚沼学園長で社会福祉実習全般の統括もしていましたので、引き受けることになったんです。そしたら、今度は全国社会福祉協議会(以下、全社協)から「社会福祉実習のモデルケースとして、毎月報告書を作って欲しい。」と依頼があったので、それも引き受けました。当時、公務員は第1回目の国家試験の受験資格がありました。私も公務員だったのですが、県や全社協に聞いたら「現場で働いている施設長はダメです。」と言うんですね。「全社協で『社会福祉士の養成課程』をやるので、そこに申し込んでください。」と。現場で働く多くの人たちがこの養成課程に応募しました。私は参加表明が遅くなってしまって、仲間に入れてもらえなかったんですよ。「全社協には社会福祉実習のモデルケースの報告書を出しているのに、どうしてダメなんだ!」って文句を言いました。それでもダメで、養成課程に入れてもらって必死に勉強しました。それで、第3回目の国家試験を受験して合格しました。
歴史がありますね。そこからどのように新潟県社会福祉士会の発足に至ったのでしょうか。
1992年1月が始まりです。今はなくなってしまいましたが新潟厚生会館という場所に6~7人で集まって、「新潟県社会福祉士会を作ろう!」となったんです。その中心だったのが私と松山茂樹さんです。松山さんは保育所をやっていまして、その事務所と機能を使って「事務的なことは引き受ける。」と申し出てくれた。「だったら私は全国の理事になる。」と。それから、1992年7月に「新潟県社会福祉士会」が発足しました。そのとき、会則が必要になったのですが、全国的にも社会福祉士会なんてない時代でしたから、会則の前例がありませんでした。そこで、有志が10人くらい集まって作り始めたんです。
その10人はどういうつながりだったんですか。
当時は合格者を新聞で発表していたので、そのつながりです。大都市や社会福祉系大学のある地域に合格者が多くて、地方は毎回2~3人の合格者でした。新潟県は第3回国家試験でやっと合格者が10人くらいになったんです。東京都では第2回国家試験の頃に、日本ソーシャルワーカー協会の中に社会福祉士班を作るという動きが始まって、1992年4月に「日本社会福祉士会設立準備会」ができました。それから、全国から有志を集めて、話し合いや様々な準備を進めて、1993年1月に東京都八王子市で設立総会をして、日本社会福祉会が発足したんです。色んな課題や問題がありましたが、「日本社会福祉士会を作るということが日本にとって大事!」とみんなで頑張りました。

その頃、新潟県社会福祉士会はどんな状況だったんでしょうか?
当時、大阪で新しい施設づくりに従事しながら会長をしていたので、松山さんには大変迷惑をかけました。なんせ2年間不在でしたから・・・。私が5年間会長職を務めた後、新潟県社会福祉士会の役員で施設長や県の役員をやっている人を第2代目にしようということで、近藤和義さんが選ばれました。
私が入会したのはその頃です。そして松山さんが第3代目の会長になられた。
それから、新潟県社会福祉士会は2006年7月に社団法人化、2014年に公益社団法人となりましたね。
大澤先生とノーマライゼーションの出会いっていつ頃ですか?先生のライフワークにされていますが、最初の出会いを聞いてみたいです。
魚沼学園にいた頃です。障がい児を抱えて困っている親から子どもを取り上げて、施設収容するのが腑に落ちなかったんです。ところが、社会も法律も家族も、障がい児の生活援助や教育に困り果てていて、魚沼学園のような公立の入所施設が求められていました。その頃に新潟大学の心理学教授だった巣山先生と新潟市立明生園長の中村先生から大きく影響を受けまして、障がい児を収容するだけじゃダメだと考えるようになりました。同じ頃に国際障がい者年(1981年)が始まって、日本愛護協会(現在の日本知的障がい者愛護協会)が札幌市で開催した全国研修会に参加しました。その道中、札幌市民会館ホールで行われたコンサートに行ったら、耳の聞こえない人の小樽樽太鼓や障がいを抱える子どもがドラムを叩いたり、先生や職員がギターを弾いていた。とても素晴らしい演奏でした。でも、彼らが暮らす施設は山の中にあって、せっかく市街に来ているのにコンサートが終わると施設に戻らなければいけない。彼らが宿泊することができる宿がなかったんです。そこからノーマライゼーションの勉強を始めました。そこで出てきたのがバンク・ミケルセンです。日本でも研修会が開催されていましたが、デンマークで勉強したいと思ったんです。私が大阪に行っていた2年目のとき、大阪府地域福祉推進財団ができまして、そこが「“エイジレス社会”海外福祉事情調査・研修」を始めたので、それを利用してデンマーク研修へ行きました。

今の日本の福祉について思うところはありますか?
介護保険について言えば、ケアプランを有料化しようという話題が出ています。それでは介護保険制度を台無しにしてしまう。これは絶対にやめてもらいたい。ケアプランは支援プロセスの一番大事な部分です。あとは地域共生社会を謳って障がい福祉分野はどんどん地域に施設が出てきましたが、介護保険分野は使えるメニューが少な過ぎる。「本当に困ったときは特養だよね。」ではなく、「本当に困った時は地域だよね。」と言えるくらいに地域にメニューが揃っていないといけないと思います。
最近は訪問介護事業者の閉鎖が目立っています。収益が得にくいようで、東京都でも赤字の事業者があるようです。特に新潟は住まいの距離が離れているのでコストがかかる。
大阪みたいに市営アパートを訪問介護が回るのは非常に効率も良いんだけどね。
次の訪問先に車で30分かかったりすると、事業としては効率が悪いですね。他にも少子高齢化による福祉介護業界の人材不足も要因になっています。
それから、あえて言いたいことは、訪問介護も含めて最近の福祉の現場は専門性が薄れている。例えば、訪問介護も介護福祉士はほとんどいないんだよ。訪問介護は地域の登録ヘルパーがほとんどで、介護福祉士が非常に少ない。訪問介護の新人介護福祉士も2~3年で特養など施設へ異動してしまう。もっと専門性を向上させるようにしないといけません。
介護保険分野は利用者の母数が多いから事業所も多いし、有資格者も多い。ですが、障がい福祉分野は利用者の母数も少ないから事業所も少なく、慢性的な人材不足で専門職の確保が難しくなりますね。
デンマークではS・S・A(Social og Sundhedsassistent/社会保健アシスタント)という専門職がいます。約4年間勉強することで、介護福祉士がSSAになることができる。今の日本では特別研修を受けた介護福祉士は痰吸引等の医療処置が認められていますが、SSAは一定の医療行為ができるんです。私がデンマークで滞在していた部屋の向いに、インシュリン注射が必要な高齢の女性が過ごしていた。そこにSSAが来て医療行為をしていました。これからの日本には訪問介護だけでなく、SSAのような専門職が必要になると思います。SSAの教育内容は「精神」「肉体」「社会」「文化」の4分野で、これを完全に勉強しないと人間を正しく理解できないというのがデンマークの考え方です。日本にも外国人労働者が増えていますが、出稼ぎとしてではなく、日本人の精神と肉体、日本の文化と伝統をしっかりと勉強してもらって、本当に良い医療と介護ができる専門職として受け入れるべきです。資格を持っていながら専門職に就いていない人を掘り起こすことも必要でしょう。

若いソーシャルワーカーの育成には、今後何が必要でしょうか。
いい実践をするには、修士課程が必要なのかもしれません。アメリカでは州や地域のソーシャルワーカーは大学卒でいいんですけど、連邦とか国の仕事は大学院卒が条件になっています。修士課程において、質の高い教育と実習を行って、それを現場に持ち込むことで全体の質が上がるような気がしています。それと福祉分野の博士号を持っている人が少ないことも懸念しています。
社会福祉士会には「認定社会福祉士」があります。認定上級社会福祉士を取得した人はまだ少ないと聞いています。認定社会福祉士はちょっとずつ増えているんですが、若い人は専門職団体にも入りにくいようで、そこが悩みです。では最後に大澤先生から後進ソーシャルワーカーに向けて、一言アドバイスをお願いします。
自己覚知が大切だね。「自己覚知」がちゃんとできていなければ、「他者理解」、対象者理解なんて到底できない。これが一番大事だね。
なるほど。自己覚知ですね!!今日はありがとうございました。