
村山:僕らソーシャルワーカーが備えてなきゃいけない要素に「価値・知識・技術」ってある。どれが上位概念ということでもないんだけど、やっぱり『価値』が一番にあるっていうのは意味があるんだと思うんだよね。
金森:それは社会福祉士が存在する社会的価値っていうこと?それとも、社会福祉士が行う仕事の社会的価値っていうこと?
金森:それは社会福祉士が存在する社会的価値っていうこと?それとも、社会福祉士が行う仕事の社会的価値っていうこと?
村山:ソーシャルワーカーが自らの行った、あるいは、たった今実践している仕事の『価値』を認識することと捉えてる。でも、それって精神性も出てくることでさ。ある種哲学的に内包すべきものとして、その行為にどんな『価値』があるのかっていうことが問われている。芸術の世界とも似てるなと思って。
金森:現代ではもはや知識ってAIに置き換えられていってる領域ではあるよね。そして、『価値』でさえも、それを要約したテキストがネット上には無数存在していて、それを暗記して語ることはできちゃう。でも、そういう次元ではない『価値』っていうのは、それを支えて、裏付けしてくれる技術が必要なんだよね。文化・芸術のフィールドでも昔から『価値』っていうのは問われ続けていることだけど、アートの語源に技術っていう意味が含まれてたりするぐらいだから、やっぱり『価値』と技術って切り離せないものだと思うよね。
村山:目の前にいるクライエントが「眠れなくて困っています。」って言ったとする。「あ、それだったら医者へ行った方がいいですよ。」って言葉を返す人がいるとする。まあ、それはある意味正しいんだけど、そこで終わってしまったらソーシャルワーカーの仕事の『価値』なんて発揮されてないと思うの。どうしてこの人は眠れないんだろうとか、何か不安なことがあるんじゃないかなとか、発せられた言葉の背景とか空気感にまで入り込めるかどうかが求められる。舞踊が発揮すべき『価値』をどう捉えてるの?

金森:俺にとっての価値観を他者と共有することへの挑戦かな。自分にとって『価値』あるものをどう他者と共有するかってとこに、技術とか創造力が問われると思うわけ。若いメンバーに「君たちはなんで踊ってるの?」って聞くことがあるんだけど、なかなか明確な答えは出てこない。だけど、そこで立ち止まって、「なんで自分はこんなことをやってるんだろう?」って自分と向き合うことって必要だと思うね。

村山:ちょっと前に、穣と佐和子さん(井関佐和子:Noism芸術監督)を密着する番組があったじゃん。その中で穣が一人で踊ってるシーンがあって、ひと通り踊った後で「あ、あそこ失敗した。」って呟くシーンがあるの。そんなの見てる人は分かるわけないんだけど、それを穣は悔やむわけ。金森穣と仕事観が合うのはここだなと思った。僕らの仕事って、舞踊の公演と同じで、常にライブなんだよ。相談援助とか面談の場面でこちらが放った言葉を撤回するのって無理なの。「あ、今のなしね。」とはできないから。刹那的なんだよね。
金森:その一点を間違えたっていうのは、まだ俺がそこにたどり着いてないってことなんだ。自分の中で究極的な境地まで追求した先にある『価値』を誰かと共有できたら嬉しいと思うから、一点も身体的な操作ミスをしたくない。反面、その『価値』が共有されなかったときのショックはとてつもなく大きい。
村山:身体表現ってのは脳からのアウトプットなわけでしょ。つまり、ミスするのは脳なんだよね。いや、脳から発せられたアウトプットを未成熟な身体が拒否することもあるかもしれないけど。例えばさ、これ数値化するのは無理なんだけど、100稽古したとしたら、本番でどの程度それが表現されてたらよしとするわけ?
金森:100まで稽古したものが、100として表出されることを目指してないよね。目指してるのは120だから。そして、そのプラス20を表現することができるかどうかは、稽古で100まで達していないと無理なの。本番独特の空気感だったり、脳内の覚醒だったり、特殊な状況に置かれたときに、そのプラス20って生まれるものなんだよね。

村山:僕らはクライエントとの面談の場面で100のパフォーマンスをしようって思ってない。むしろ、どれだけ減らせるかって考える。もちろん、100のベースを持っていなければそんなことはできないんだけど。僕らが小さな刺激になったり、動機づけをしてクライエントが100に向かえばいいんだって思ってる。だから、できるだけアドレナリンが出ないように、変なやる気も出さないように平坦な心境で本番に臨みたいと思う。
金森:プロフェッショナルとして100持たないといけないのは一緒だよね。その100をどう意識的に使うかだから。でも、100まで持てるかどうかは、やっぱり稽古、勉強するしかない。俺らって選ばれなきゃいけない。社会福祉の世界もそうだと思うけど「あなたに相談したいんです。」ってならなければいけないよね。俺らなら「Noismが観たいんです。」って。
村山:そのためには、社会制度を充分に理解して、言語化して、実践して、誰かの役に立つように具現化しなければいけない。どんなにいい制度があっても、使い方を知らないと意味がない。だから、常に100のパフォーマンスができるようにしておくことが大事。そこから20とか30とか使う。

金森:社会福祉士の活動ってさ、替えが効かないっていう度合いで言えば、相当シビアだと思う。その中で選ばれることの重圧みたいなのって想像し難いものがあるね。
村山:全てのご相談に明確な答えが出せるものではないし、出すつもりもないから「じゃあ、これからは僕らが伴走するね。」ってことが結論になるときもあるんだ。それから、言葉を超えたものが安心につながる場合もある。こちらが持つ空気感だったり、温度だったりさ。当然、人間同士だから相性もある。
金森:人間的な魅力とか包容力も技術なのかもしれない。その仕事に向かう態度とか覚悟って、黙っていても気配として滲み出るものだから。相談にくるぎりぎりな状況に置かれた人の視覚の方がシビアだと思うよね。人を見る感覚が研ぎ澄まされてるっていうかさ。
村山:
専門職向けの講義なんかではよく言うんだけど「どう見られているか意識してますか?どう見られようとしてますか?」って。でも、自己覚知って、反省という痛みを伴うから精神的にはきついことなの。でも、プロとしてクライエントの人生を聞かせていただくって軽々しいものじゃない。そして、いつも僕は恥ずかしながらっていう感覚があるんだよ。そんな感覚ない?いや、舞踊家はあるだろうな。あんなこと普通の神経じゃできないもん。
金森:舞踊って非日常的なるものなんだよね。観客も非日常的な時間と空間の中にいる。その多種多様で複雑に内包された感覚の中に恥ずかしいというのもある。でもね、羞恥心を全く持たないで、舞台に立てるようになればいいかというとそうじゃない。恥ずかしいとか怖いっていう、負のエネルギーがないと突き抜けないんだよね。
村山:あのさ、これは僕のいつもの妄想なんだけどね・・・。所持金があんまりなくて、それを使っちゃったら食料も買えなくなるんだけど「私はこのお金でNoismを観て、あと2週間は水だけで過ごします。どうしても今回の作品は観たいんです。」っていう人が目の前にいるとするじゃん。そんなときどうする?

金森:どんなシチュエーションを想像してんだよ(笑)。俺、自意識過剰だけどそこまでじゃない。そうだなー。俺が踊り手として、今から5分だけ踊って、もう二度と踊りませんという状況なら「何としてでも観に来て。」って言えるかもしれない。でも全財産をかけてって、それはありがたいけど「Noismを観るより、温かいご飯を食べた方がいいですよ。」ってなるかも。俺にとっては、踊ることも創ることも、責任を取ることじゃないから。
村山:僕は「Noism観ておいで。」って言うと思うんだよね。芸術ってそういうものであって欲しいと思うわけ。パンを買ってお腹を満たすか、芸術に触れて心を満たすかって、これは究極の選択で、自己決定なんだと。そして、僕らソーシャルワーカーは、その自己決定にどこまで伴走することができるかってことが存在する『価値』の真髄なんだと思う。
金森:公演の値段設定で言うとね、もっと高くした方がいいっていう価値観もある。これだけの『価値』があるんですよって、数値で示した方がいいという意見が多数派だったりもするの。でも、Noismが高いお金を払って観るものみたいに思われてしまうのが嫌なんだよね。本当はもっと安くしたいぐらいだから。その辺りの判断は難しいよね。それこそ、お金を払って観にくる観客にとっては、芸術も市場経済の中にある『価値』のひとつだからさ。
村山:社会福祉というものは、そのキャピタリズムが生んだ影に存在するものなんだよね。だからと言って、資本主義をひっくり返そうなんてマインドにはならないんだけど。もっとも、共産主義国家の下では困る人がいないかって言えばそうじゃない。国家が何主義になろうとも福祉ってのは必要になる。でも、資本主義って、それが顕著に出る。

金森:社会の中でリアルに起こっていることに対峙する社会福祉士の仕事って尊いと思うよ。その行為が他者の生命とか人生、権利に影響するわけだから。その活動の中で、目の前の人を激励すべきかとか、どんな言葉をかけるべきかってどう判断してるの?
村山:
それはね、もう気配を読むしかない。全てを言語化して渡してくれるわけじゃないから。あとは、その空気感を作っていくことかな。目の前の人が発している気配と、こちらが放つ空気感とを混ぜ合わせたら、この場の緊張が緩みそうだなとか。それには技術がいるね。でもね、これって相談に来る人と僕らの共同作業なんだよね。こちら主体ではないの。
金森:それこそまさにAIには無理で、人間じゃないとできないことだよね。そしてそれは実演芸術における真髄とも言える。実演って舞台上の実演家と客席の観客との共同作業だから。敏感であるということは、世界では才能とすら言っていい大事な能力だね。それに芸術のアナログ的な進化ってことで言えば、世の中で新しいって感じてもらえるようなことって、すでに20世紀にやり尽くされちゃってるって思う。だから、新しいとされる領域を狙うよりも、選択すること。組み合わせのセンスが問われる。そのセンスも敏感でないと磨かれない。
村山:ミッドセンチュリーとかポストモダンの時代に、誰が見ても恰好いいねって表現とか手法は出尽くしたというのは同感だね。偉大な先人たちがいっぱいいる。ファッションの流行りだって、多少ディテールは違うけど大枠は一定期間に繰り返されてるだけだから。穣たちの足場だって、基本的にはクラシックでしょ?

金森:Noismがって言うよりも、個人的にはクラシックなものが長く残るだろうと思ってる。10年後、20年後に作品を再演しますってなったときに、観るに値するものを創りたいし、そこを目指してる。消費だけして満足ですって時代ではなくなってきてるよね。
村山:社会はどんどん変化するんだけど、本質的なものの考え方、捉え方は変わらないってことだよね。新しいことをやるには、きちんとした基礎がないとダメ。そもそも、ベーシックを知らなきゃ新しいことなんてできないはずなんだよ。ソーシャルワークで言えば、教科書で定められたものをきちんと勉強して、頭に入れる。そして、新たな自己研鑽を継続すること。常に100の状態に自分を保つって簡単なことじゃないから。そういう努力をした人には自然と『価値』が付与されるってことだよね。
金森:そうだね。先人たちが残してくれた身体知を学んで、その上で自分たちが見出したものと融合して、今の時代に有用な形、要するに価値あるものとしてアウトプットする。この、今の時代にっていうのが大事でさ、時代は移り変わっていくわけだから、ただの古典主義ではいけないわけ。過去を参照しつつアップデートし続けること、これが100の状態を保つということだし、そこに人生を賭ける人たちのことをプロフェッショナルという。まあ、その姿勢や生き様、その仕事に価値を見出すのは常に社会の側、要するに他者であって、結局『価値』ってさ、自分で決めることじゃないんだよね。


りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館舞踊部門芸術監督、Noism Company Niigata芸術監督。1974年横浜生まれ。17歳で単身渡欧。ルードラ・ベジャール・ローザンヌにて、モーリス・ベジャールらに師事。ネザーランド・ダンス・シアターⅡ在籍中に演出振付家デビュー。その後、リヨン・オペラ座バレエ、ヨーテボリ・バレエ等で舞踊家及び振付家として活躍。2002年に帰国し、2004年4月新潟市民芸術文化会館舞踊部門芸術監督に就任。日本初となる公立劇場専属舞踊団Noismを立ち上げ、その作品は国内外、各方面から高い評価を得ている。平成19年度芸術選奨文部科学大臣賞ほか受賞歴多数。令和3年紫綬褒章。


社会福祉士【第178605号】 精神保健福祉士【第100884号】 1974年新潟市生まれ。NPO法人新潟ねっと代表理事。2017年より生活困窮者自立支援制度に基づく就労準備支援事業を新潟市より受託し、日々相談援助に従事している。2021年には西区ひきこもりびとミーティング座長に就任。その他、複数の自治体におけるひきこもり支援プロジェクトでスーパーバイザーを務めるなど、様々な地域でひきこもり支援組織の立ち上げや新しい社会資源の開発に取り組んでいる。また、県内外各地で「ひきこもりの理解と支援」や「アウトリーチの考え方と実践」などの講演活動を行っている。2025年新潟県弁護士会「人権賞」受賞。